バツベン発足記念イベントのスピーチ

「バツバツ人生万歳! 煮ても焼いても、腐ってもボクは鯛!」

小学校を2回目の卒業

さて。。。
未来への期待と不安で胸をいっぱいに膨らませながら、まなじりを決した「紅顔の美少年」、いや「ハナ垂らしの田舎少年」が、今流れていた「馬場目小学校の校歌」に見送られつつ、母校の学び舎を後にしたのは、今からさかのぼること42年前、1972年、昭和47年の春のことでした。

それなのに、今こうして、またしても、ヒゲ面になって馬場目小学校の門をくぐり、しかも、かつて先生たちにしかられていた職員室で、働くことになろうとは、一体誰が想像できたことでしょう。

そんなボクは、明日で、約半年の任務を終え、なんと2回目の、「馬場目小学校卒業生」となるわけです。世の中広しといえども、小学校を2回卒業する人はそう多くはおりますまい。いやあ、おそらくボクだけでしょう。
人生とは本当に面白い、なんとも笑っちゃうほど不可思議なものでございます。

ちなみに、ボクが卒業した昭和47年という年は、第一次田中内閣が成立し、「日本列島改造論」が大ベストセラーになった年でした。つまり、この頃から「地価高騰」が始まり、地価は下落しないという「土地神話」にのっかって、日本はバブル経済へと突き進んでいくわけです。また、この年は連合赤軍による浅間山荘事件が耳目を集めたり、戦後28年間グアム島の密林に潜伏していた横井庄一さんが発見され帰国した年でもありました。

起業まで

さて、話を戻します。
42年前に、ここ馬場目小学校を卒業したボクですが、その後、五城目第一中学校をへて秋田の高校へと進みました。馬場目のこの田舎から、当時は今の倍以上もあった人口2万人を超える町の中心へ、そして次は県庁所在地である秋田市へと、少しずつ自分の所属する世界が広がっていく時の高揚感は、おそらくボクが「徹底的に田舎少年」だったからこそ経験できた感覚でしょう。

ボクの生活空間が秋田市にまで広がったとはいうものの、元祖ローカル少年はやはり、どこまでいってもローカル少年でしかありません。今でも若者の多くがそうであるように、当時のボクの夢の翼もまた、もっと大きな都会の空にあこがれていました。

その空を目指して大学を受験しますが、それに失敗し、仙台で浪人生活を1年送ったボクですが、その後、関東の大学を出、杜の都仙台で、社会人1年生としてサラリーマン生活を始めることになります。そこはある大手の「スーツ販売会社」でした。

その会社で、ボクはある程度の営業成績を挙げたのですが、それが公正な評価を受けず、上司の機嫌を取るのが上手い連中が昇進していく現実を目の当たりにし、そのことに辟易したボクは、入社から4年目の夏にその会社を辞めました。

その後、評価が報酬としてストレートに反映される実力主義の外資系生命保険会社からの誘いで、ライフプランナーとしてしばらく働きました。そこで、すっかり営業に自信をつけたボクは、より高い収入を目指して、かつての会社の先輩とともに、共同経営で背広販売の会社を起こします。時はバブル全盛、ボク自身も、マイバブル全盛で、ヨーロッパの外車を次々に乗り換えるような、そんなぜいたくな生活をしていたのもこの頃です。

3人目の子どもが生まれた1991年には新居を購入、今度は単独で会社を起こします。サラリーマンから実力主義の会社、そして共同経営と、どんどん収入は増えていったけれど、自分の理想や志が大きくなるにつれて、それを叶えるには自分で起業するしかないと思ったからです。ボクの興した会社は「モモ」という変わった社名の会社でした。ドイツの作家の児童文学書の名前から拝借したものでした。

ベンチャー起業家として華々しい活躍

時間泥棒たちに奪われた「ゆとりとシアワセ」を町の人に取り戻す戦いを繰り広げる「モモ」という名の勇敢で純真な女の子の物語。その思想を色濃く反映した会社にしたいと、社名にそれを使わせてもらったのです。「わくわく発明起業」という会社のコンセプトもそうです。そうやって志高く始めた会社でした。

それから間もなくして母を看取り、それを機に、秋田にいた祖母と父を呼び寄せて、仙台で7人家族の生活が始まります。これらは、ボクがちょうど30歳の時に同時に起こったことでした。

その会社は、当初スーツを販売したり、リゾート地向けのお土産品を企画デザインしたりといった業務でしたが、ある東京の知人とのご縁で、「デザインデータの転送装置」の開発に関わったことがきっかけで、その用途を考える中から生まれたサービス、(これはホテル・旅館向けの「歓迎、何々さま御一行」みたいな看板のデータを作って通信回線で送るサービスなんですが)、それを始めることになりました。

このサービスが世間の注目を集め、1995年、通産省の「創造法」認定を受けることになります。そして、これがきっかけで、小さなアパレルデザイン会社は一躍「ITベンチャー企業」と呼ばれるようになっていくのです。

時はバブル崩壊後でしたので、景気を良くするためには是が非でも開業率を上げることだ、そのためにはベンチャー起業家を、1人でも多く発掘し、開業させることが急務だとばかりに、国を挙げての「ベンチャーブーム」ならぬ「ベンチャー支援ブーム」が巻き起こっていた時代です。

ボクの会社にはマスコミの取材も殺到していましたし、ボクを「時代の寵児」だといっては講演依頼もひっきりなしでした。「社長は会社の広告塔」という考え方で、依頼にはできるだけ応えるようにしていたボクですが、今思えばあれは、支援する側からも広告塔として利用されていたようにも思います。

自分が主催者となり、「フォレストポラーノin仙台」という、数千人規模のベンチャー啓発のための産学官連携イベントを、宮城県知事なども招いて、大々的に行ったこともあります。

また、データを作成するSOHOスタッフたちを束ね、全国でもかなり早い時期に、SOHO人材ネットワークを作ったことも話題になったりしました。
東京のベンチャーキャピタル数社から多額の出資をいただき、資本金が1億円を越えたのもこの頃です。

一転、倒産への道

しかし、そんな一見順風満帆に見えた事業の裏側で、IT技術は日進月歩の勢いで急速に進展していました。ボクらが提供していたサービスの需要は、あっという間に過去のものとなり、自然、事業は急速にしぼんでいきました。

この頃から、株式の店頭公開を目論んで出資した投資家たちは、手のひらを返したようにボクの経営責任を追求し始め、銀行からの返済要求は日に日に厳しさを増しました。それまでマスコミに忙殺されていた時間は、金融機関との返済猶予の交渉の時間に置き換わりました。そして、まともに仕事ができなくなって、やがて、事業の継続が難しいところまで追いつめられていったのです。

そして、2002年の春、遂にボクの会社は倒産しました。ボクが思いを込めて作ったモモという会社はあっけなく幕を閉じ、当然のことながらボク自身も自己破産したのです。
ボクを信じて、投資や融資をしてくれた方たちには、多大なご迷惑をお掛けしたと思っております。12年たった今でもそのこと思うとつらくなります。あらためてこの場をお借りして深くお詫び申し上げます。

倒産して分かったこと

それから12年たった今、自ら反省を込めて振り返ってみると、世間にもてはやされているうちに、ボクは知らず知らずに有頂天になっていた時期があったと思います。若気の至りで気持ちが浮つき、それが経営に悪い影響を及ぼした時期も確かにありました。ですが、それはほんの一時期だったようにも思えるのです。

ベンチャー経営者としてのボクにとって、社長業は、いつまでも浮かれていられるほど、そんなに楽なものではありませんでした。一見華々しく見えるその裏側で、特に最後の数年は、いつも資金繰りに四苦八苦し、冬のボーナス前などは、コートの襟を立て、木枯らしの町を資金繰りに奔走していたのです。それはまさに、平然と泳いでいるように見えても、水の中ではバタバタ忙しく足を動かしている、「あひるの水掻き」そのものでした。

ボクは、自身の倒産劇を通して、あらためて経営の難しさ、経営者の大変さ、そして、その社会的責任の重さを痛いほど実感しました。倒産や自己破産という「バツ」が、周りの人たちも巻き込んで、その後の人生にいかに大きな禍根を残し、大きな打撃を与えるものなのか、ということも身をもって学びました。

また、ビジネスで知り合ったおびただしい数の名刺は、倒産とともに、つまりボクの肩書きがなくなった瞬間に、何の役にも立たなくなることも分かりました。

親戚の中には、急に冷たくなったり、関わりを断絶してしまう人がいることも悲しい現実として知りました。

故郷へ錦を飾るどころか

ボクは倒産後、しばらく逐電して、離島でホームレスのような放浪生活を送っていた時期がありましたが、それは、過去を振り返り、自分を知り、これからの人生を考える上で、ボクにとってはとてもいい経験になりました。

しかし、その時期に家族をなおざりにしていたことも事実で、それも一因で、やがてボクは妻とは別れることになります。これもボクのもう一つの大きな「バツ」です。

その後、ボクは、その時すでに認知症で、介護認定を受けていた祖母と、同じくデーサービスに通うようになっていた父を、遠路レンタカーに乗せて、実家があるこの近くの村に連れ戻ってきます。

築35年、誰も住まなくなってから十数年たっていた家はヒドい有様で、とても人が住めるような状態ではありませんでしたが、どうにかこうにか改修して、2004年4月から祖母、父、ボクの3人の生活が始まったわけです。  

「故郷に錦を飾る」という言葉がありますが、飾るどころかボクは、そんなふうに、見るからに落ちぶれて、人目を避け、ひっそりと隠れるようにして故郷に戻ってきたのです。  

捨てる神あれば拾う神あり

このように「バツ」はつらいものです。悲しいものです。
特に「倒産」のバツは、多くの人に迷惑を掛けたと思う、慚愧(ざんき)の気持ちが強ければ強い人ほど、立ち直りに時間がかかるものです。中には、それで命を落とす人さえいます。

一向に景気が回復しない中、今でも相変わらず倒産する企業は多く、社長が自己破産をするケースも続いています。ということは、立ち直りたくても立ち直れないまま、一生小さくなって孤独な生活を送っている人たちが全国にはたくさんいるということです。

今日、最後に踊ってくれる、8年前に亡くなった妻のお父さんもその一人でした。石巻で水産会社を起こし、何十年も続いた立派な会社だったのですが、バブル崩壊から始まった水産不況で、石巻の水産会社が軒並み倒産する中、1999年、遂に所有する舟を、二度と再び漕ぎ出すことができなくなってしまったのです。   

義父は地元水産業界の長年の顔役で、とても信望の厚い人だったそうです。倒産から小さくなってしまい、外へ出たがらない義父を、いつも叱咤激励していた人がいます。ボクらが「おばあちゃん」と呼ぶ義母の桂子さんです。この鯛を作ってくれた人です。ボクの妻である真理さん同様、おばあちゃんもまた、倒産したパートナーを夫に持ちながら、それを励まし、支え続けた立派な「バツベンの妻」なのです。親子二代で「バツベンの妻たち」。これはもう「極道の妻たち」以上にすごいことだと思います。

さて、田舎に戻ってからのボクですが、お金も仕事もない中で、しばらくは父と祖母の介護、畑仕事に明け暮れておりました。ややあって、仙台時代からの友だちで、会社を辞めてフリーのライターになったばかりの真理さんがやってきて、ボクらとの不思議な共同生活が始まりました。彼女が、ここでの農業体験を綴った論文は、毎日新聞社主催の「農業記録賞」を受賞しました。

ここでの10年、いろんなことがありました。
思えば、来た時から村の人たちには大変お世話になりました。荒れ地になっていた畑に耕運機を入れて耕してくれた人、トマトや茄子の苗をくれたおばあさんたち、何も知らず道具ひとつなかったボクたちに、クワの使い方をはじめ、畑仕事のあれこれを教えてくれた皆さん、屋根に上がって雪下ろしをしてくれた人もいました。薪を手配してくれたり、割り方を指導してくれた人もいました。たくさんの人にボクたちは助けられてここまできたのです。

お世話になった人の中に、陶芸家のご夫婦もおられます。彼らに結婚の証人になってもらい、ボクたちは共同生活3年目に入籍しました。そんな恩人たちに、今思っても本当に頭が下がり、感謝の気持ちでいっぱいです。

もし、あのままベンチャーの騎手として、寸暇を惜しんで突っ走るだけの仕事をしていたら、きっと気付けなかっただろう人の痛みや、ゼッタイ見えなかっただろう心の風景が見え、嗅いだことのなかった風の匂いが分かるようになりました。それがこの倒産後の12年間の収穫であり財産だと、今つくずく思います。本当に貴重な12年間でした。

バツベン誕生の出会い

その間、ボクは離島や片田舎にジッと身を縮め、身を潜めつつも、実は何物にも代え難い「人間としての肥やし」を心の中に作って発酵させていたのだということに気付かされます。そして、その肥やしが十分に熟成したからこそ、こうして今「バツベン」が生まれたのだと思います。バツからの12年で得たものこそが、ボクの再起の大きな自信になりました。   

そんな暮らしが続いていましたが、ボクの身に大きな変化が起こったのは去年の夏でした。役場の総務課にいる学生時代の同級生のNさんを介して、これからスピーチをしてくれる、まちづくり課のSさんとお会いすることになったのです。  

Sさんは、この町の現状を語り、今度オープンする町の施設を活用して、この町の活性化や雇用創生につなげることが急務であり、そのためには伊藤さんに力になってもらいたいと力説しました。そうしてボクは、彼の熱意にほだされる形で、管理人の募集に応募、面接試験を受けて採用されたのです。去年の10月のことです。

こうしてボクは、秋田に戻ってきて初めて、小さな穴蔵から、少しだけ表舞台に出ることができたのです。 
ここのセンターの管理人として、去年の10月から年間勤めさせていただき、明日で卒業ということになりましたが、ボクの一番の役割であり目標だった「空き室を入居者で埋める」ということも、希望者が着実に増えてきており、空き室は間もなく全部埋まりそうな勢いです。そういう意味でのボクの役割は、ほぼ終わったといっていいでしょう。

じっくりゆっくりバツ人間のこれからのチャレンジ

これからはまた違う形で、ここでお世話になった方たちや五城目町のために、自分ができることを、ボクなりの方法でお手伝いさせていただくつもりです。これからのバツベンに、大いにご期待ください。  

さて、振り返ると、ボクの人生、そんなこんなでいろんなことがありました。
ね、うし、とら、う・・・の「干支ひとまわり」は12年サイクル。不思議なもので、ボクはちょうどこのサイクルで、人生の節目となるようなことが起こっています。

最初は、このふるさと秋田を出て行った18歳の時。
それから12年後の30歳の時、ボクは仙台で初めて会社を起こしました。
さらにそれから12年後の42歳の時、ボクは倒産し自己破産したのです。
そして今、倒産から12年たって54歳になったボクは、「もう一回」新しいことにチャレンジしようと立ち上がったのです。

新しいこととは、もちろん「バツベン」です。
バツとは失敗や挫折。
ボクみたいな、華々しくもおびただしい数のバツを持つ「バツ人間」は、そうはいないかもしれませんが、小さなバツは人間誰にでもあるはずです。
その失敗や挫折を、バツのままで終わらせるか、バツから学び、より大きなマル、つまり「充実した人生」を手に入れるか。そこが大きな分かれ目です。

ボクにとって、人生最大のバツである「倒産」や「自己破産」に加えて、「離婚」という「バツバツバツ」から始まる12年という長い歳月は、さっきも言ったように、それはボクの人生にとって、何にも代え難い貴重な経験です。
ホームレスのような放浪生活も、ここでの地域の人に助けられての生活も、介護から学んだことも。
人の優しさと冷たさを知るにつけ、ボクは、受けた恩を忘れず、感謝を忘れず生きていこうと心に決めました。
本当に大切にしていかなければならないものが何か、少しずつ分かるようになってきた気がします。

これからボクがやっていくことは、かつてやっていたようなビジネスというジャンルではありません。つまり利益を追求するのが目的ではありません。
バツベンたちを応援する活動を手弁当でやっていこうと思っています。

とはいえ、ご飯も食べていかなければいけませんので、ボクがいなくて半年間、大変な苦労をかけた妻とまた合流し、また、今まで同様にテープ起こしや、文章リライト、ホームページ作成などの仕事を、コツコツやりながら、バツベンのほうは、じっくりゆっくり、地道に取り組んでいくつもりです。

12年ごとに何かが起こっている自分の人生ですが、この先12年後、66歳になったボクは、一体どうなっているんでしょうか。

バツベン伊藤靖は何をして、誰と、どんな人生を歩んでいるでしょうか。
それを考えるとワクワクしてきます。
バツバツ人生万歳! 腐っても、煮ても焼いてもボクは鯛です!
どこかで出会ったら会ったら、「よう、バツベンさん!」と明るく声を掛けてください。

ご清聴、ありがとうございました。

2014.03.30 於:五城目町地域活性化支援センター(旧 馬場目小学校)体育館

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